The other side of the planet - 地球の裏側でおもうこと

生まれ育った日本を離れNYCで生活。日々の暮らしを通し、地球の裏側でおもうことを綴ったBLOG.

Become less "me".

ふと気がつくと、「自分って」「自分とは」「自分だから」

まるで呪いのように、「自分」にがんじがらめになっていることはないでしょうか?

 

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社会生活をする上で、「自分ってXXだ」と自分を説明したりすることが求められることも少なくないかもしれません。「自分はこういう人間だからこう生きた方が幸せだ」なんて自己分析することは誰にでもあるのではないでしょうか。

そういえば就職活動している時も散々「自己分析」っていう言葉を耳にした記憶があります。

 

でもこの自分で理解している、もしくは周囲の人のフィードバックによる自分像、本当の自分でしょうか?

 

一旦「自分はXXです」と宣言してしまうと、後に引けなくなってしまうこともあるかもしれません?一貫性を大切にして自分の言ったことに責任を持つ、いわば自己分析を肯定するために頑張って邁進している人もいるのではないでしょうか?

 

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自分が一生懸命考えて、生きてきて、その結果の自分像ですから、それは誰にとっても多かれ少なかれ大切かもしれません。

 

でもふと違和感を感じることもあるのではないでしょうか?

 

「自分」がいると「自分以外」があって当然ですね。いわば自分とそれ以外という分断が生じます。

人間関係での悩みはほとんどの人に存在するのではないかと思いますが、この「自分」と「自分以外の人やもの」この思考の構造から生まれているのではないでしょうか?

「他人と比べて自分はXXだ」「自分に対してあの人はOOだ」等等・・

仕事やRelationship、日々の生活の中でそんな考えが頭の中をぐるぐるすることも多いのではないでしょうか?

 

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Yogaや瞑想を毎日初めて変わったことの一つに、この「自分」というセンスが薄れてきた、正確には自分だと思っていた自分が社会生活の中で生きていくにあたって蓄積されてきたいわばただのイメージであり、そのイメージが揺るぐことのない真実ではないと理解しだした、という点があります。

 

これがなくなってきたと同時に不思議と頭の中をぐるぐるする悩みが少なくなったように思います。

 

 

 

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バレェをしていても体感したことですが、この「自分」というセンスから解放されている時こそ、余計な邪念も入らずまるで自分の中の何かが全てを知っているかのように、自然とPirouetteができたりするものです。

ヨガやRunningもそうです。

 

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自分だと思いこんでいる何かから解放された状態。

そこにはもはや思考も沸いて来ず、純粋にただただ踊る、瞑想する、走る、そしてそれを楽しんでいる、そんな状態です。

 

少しわかりずらかったでしょうか。

伝えること、文章を書くことって難しいですね。

 

もっとわかりやすく伝えられるよう日々サドナと書くことも続けていきたいと思います!

 

今日はこの辺りで。

 

 

Guru - グル

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指導者を指す言葉、Guru。

インド哲学やYogaに触れたことがあれば耳にしたことがある方もいらっしゃると思います。

また、何かの第一人者、エクスパートといった意味で使われることもあるようです。

 

そのGuruの元々の意味は、サンスクリット語で

Gu:Darkness - 暗闇

Ru:Dispel - 光を照らす

暗闇に光を照らす者、という意味があります。

 

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インド哲学やYogaでは、人は皆私たちが知りたいことは私たちの中に存在していると考えているそうです。私たちが迷うのは、私たちの中に曇りがあるから。暗闇の中にいて、私たちが知りたいことが見えない状態にある。

 

ここでいう暗闇はIgnorance(無知)をさしています。

光によって暗闇の中に真実が照らし出される。

 

指導者の役割は、何か新しい知識を人に与えるのではなく、人々が自身の中にある知恵を見つけられるよう、気づくことができるよう、曇りを取り除くこと、暗闇に光を照らすこと。

そのように考えられ、指導者のことをGuru(暗闇に光を照らす者)と呼ぶそうです。

 

 

もちろん私たちが社会生活を送る上で、いろいろと身につける・覚える・学ぶことはあります。特定の社会のメンバーとして守るルールや何かツールの使い方等。

しかし、インドの経典『ウパニシャッド』では、私たちが本当に知る必要のあるものは、私たちの中にあると言います。

それが故に、瞑想を通して自己の内に意識を向けるのです。

私たちが進化をしてきた痕跡はまさに私たちの中にあります。

 

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ブッダのように、いつの日かそこにたどりつける日がくるのでしょうか。笑

でも知りたいことが自分の中にある、それは納得。

ゆっくりでもそこに近づけるよう日々サドナに励んでいこうと思います。

 

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NYはまだまだ寒いですが、Lunar New Yearもあけて日が長くなってきました。

春が近くなってきたのを感じます。

 

今日はこの辺りで。

 

決断が難しい訳

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みなさん、日々決めなければいけないことが沢山あるかと思います。

どんな仕事をするか、

どこに住むか、

何をして今日過ごすか、

買うか我慢して節約か、

何かを相手に言うべきか言わないべきか、

関係を続けるべきかそうでないか、

等々、人は日々の生活の中で多くの決断をしていると思います。

 

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でも、なんだかいろんな決断が難しいな、なかなか決めることができないな、そんなふうに思っている方もいらっしゃるのではないでしょうか?

 

また一度決心したものの、本当にそれでよいのかな、よかったのかな、など心のどこかで迷う声がささやくこともあるのではないでしょうか?

 

迷って迷った結果、結局考えることに疲れて決断をしない=現状維持というオプションに落ち着くこともあるかもしれません。

 

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何がよいのか、悪いのか

何があっているのか、まちがっているのか

なんて、実際におこってみないと、わからないことも多いのではないでしょうか。

自分の行いやコントロールだけではなく、いろいろなことが折り重なって日々物事がおこるので決めて行動をする前から予想はできないものです。

 

そもそも、よいVS悪い、あっているVS間違っている、とAbsoluteに言えることばかりではないかもしれません。

 

決断した直後はよいと思ったことも、この世の全ては移り変わるものなので、しばらく経ったらそうでなくなったり、逆に何か決断をしたことで一時辛い思いや物事が悪い方向にいったように見えても、後々それが好転した・成功につながった、といった話も聞いたりします。

 

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またある人からみたら”悪い”と見える状況も、もしかしたらその人にとってそれは乗り越えるべき人生の宿題のようなものなのかもしれません。その宿題を乗り越えたら、そこには他に変えがたい達成感やその人の血となり肉となり後世に役に立つのかもしれません。

 

そう考えると、どんな決断をとったとしても最終的にはよいのではないでしょうか?

何が起きてもその結果を受け止め、その状況に応じてその場その場で必要なことをする、そんな態度があればどんな決断をしても、その結果どんなことが起こっても大丈夫かな、そんな気がします。

 

私たちの多くは恵まれていて人生のチョイスがある。選択の自由がある。

それが故に、いろいろ悩んで苦しんでしまう。

確かに選択の結果はUnknown(未知)です。

Unknownに対して人は恐怖を抱くものです。

でもUnknownこそ生きる醍醐味。

全てが分かってしまっていたらそんなつまらないことはないですね。

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今日はこの辺りで。

 

 

本当の自分

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また少しご無沙汰してしまいました。

NYは氷点下を下回る日が続き、とっても寒いです。

みなさんいかがお過ごしでしょうか?

 

前回、苦しみからの自由でズバリ苦しみから開放されるには、自分の本質を知ることだとインドの経典は説いているとお話ししました。

 

そこで、自分の本質って?本来の自分って何?

という疑問が沸いた方もいらっしゃったかもしれません。

今日はその点について書いていこうと思います。

 

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インドの経典ウパニシャッドは、ずばり私たちの本質はアートマンであると言っています。

日本語では我と訳されたりしているようです。

 

アートマンは消えることもなければ生まれることもない、永遠にひろがる変わることのない存在であるとされています。

 

変わることのないアートマンに対して、常に変わり続けるもの、そしてやがていずれはなくなるもの(プラクルティなどとよばれたりします)の中に例えば私達のマインドや感情、体といったものがあげられます。思いや感情は生まれては消えていくものです。体もまた、誕生と死があり永遠に続くものではありません。

私たちは自分のマインドや体があたかも自分かのように思いこんでしまって、体が老いれば悲しんだりするものです。

 

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経典はこの自分でないものを自分と思い込む、本当の自分を知らないというIgnorance(無知)が私たちの苦しみの根源だと説いているのです。

もし本来の自分は、この終わることがない永遠に続くアートマンという存在だと知っていれば、悲しむことも恐れることも何もないと気づくはずです。

 

論理的ではありますが、そんな事言われても、「あ、そうか、そうだよね」すぐに理解ができるわけではありませんよね。

では、どうしたらその本来の自分を理解できるのか?

この自分がアートマンであるという真実はもともと私たち自身の中にあると言われます。

それが理解できないのは、自分の中に曇りがある状態だから。その曇りを取り除くことで外の世界ではなく、自分自身の中に真実を見出せる、経典はそんな風に言っています。

 

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そのため、Yogaや瞑想では自分自身の内側に意識を向けていくのです。

目を閉じ、外界からの刺激を最小限にして、静かな心で自身の中にある知恵、真実を観察する。Yogaや瞑想は、その真実を突き止め、苦しみから解放されるためのツールなのです。

私たちの中に存在する、真実は非常に捉えがたく、心の静けさなしにそこにたどり着くことはできません。

 

少し、インド哲学深くいきすぎてしまったでしょうか。

また別のいろんな角度からお話ししていけたらと思います。

 

今日はこの辺りで。

 

 

苦しみからの自由

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めんどくさいな、

やりたくないな、

苦手だな、

毎日の生活の中で誰しもそんなふうに思うことはあるかと思います。

 

逆に、これがしたい、

どうしてもこれが欲しい、

これがないと満たされない、幸せになれない、

そんなふうに思うこともあるのではないでしょうか。

 

インドの経典バガヴァッド・ギーターでは、したい・したくない、好き・嫌いといった思いとそこから生じる欲望が苦しみの源であり、その欲望を手中におさめることで、自由(サンスクリット語でMokshaやMuktiと呼ばれます)を手に入れられると説いています。

 

一見、自分のしたいことをする、欲しいものを手に入れる、ということが自由のように感じますが、欲しいものを手にして満足しても、少し時が経つと何となくまた満たされなくなり、また別のものが欲っしたり、そのような経験は誰しもあるのではないでしょうか?私たち人間の欲望は終わりがありません。

 

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逆に欲望のままに欲しいものを次々と手に入れも、根源的な乾きが満たされていなければ、欲しいものを手にすることは炎に薪をくべるかのように、欲望という炎はどんどんどんどん大きくなります。

 

欲望は満たされなければ、「何で手に入らないんだ!」と悲しみや怒りが湧き、それを妨げている何かや誰かが憎くて憎くて仕方なくなるものです。憎しみや怒りは、自分というシステムの中で起こっているいわば化学反応です。憎しみや怒りで傷つくのは、その感情を抱えている自分自身です。これが欲望が苦しみに変わるからくりのようです。

 

では、一体どうすればこの欲望をコントロールできるのでしょうか?意思の力で押さえ込もうとしても、湧いてきてしまうものです。

 

インドの哲学ではこの解決法として、Yogaや瞑想を通して自分の本質を知る、自分の本質こそが幸せの根源であるということを知ることによって、この欲望から自由になると言っています。自分の本質が幸せの源であると知った時、人は外の世界に満ち足りない何かを求めることがなくなるのです。

 

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何かをしたいという思い自体は悪いものではありませんが、それを苦しみに変えないよう自分の手中に収めることが大切です。欲望にコントロールされないのが賢者である、欲望の奴隷になるのではなく、欲望の王となれ、とインドの経典バガヴァッド・ギーターは説いています。

 

まだまだ、賢者のレベルには達していませんが、今日も自由を目指してサドナ(Sadhana - サドナ-)に励もうと思います。

インド哲学

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遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

みなさん2021年はどこでどんなスタートをきったのでしょうか?

私はQuarantine中ということもあり、NYで静かに新たな年を迎えました。

 

昨今修行と勉学に夢中になっており、更新が少しとまってしまいました。

YOGAを勉強するにあたって、切り離せないインド哲学。

私たちは一体何者で、どこからきて、どこへいくのか?何のために生きて、何のために苦しみ葛藤をするのか?どうしたら苦しみを乗り越えることができるのか、幸せになれるのか?

インド哲学は、そんな人間の根源的な問いに答え、私たちが暗い夜道も迷わず目的地へ辿り着けるように光を照らしてくれています。

 

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昨年からインド哲学の聖典を少し読み始めました。

紀元前800年頃ー紀元前200年頃にかけて書かれたとされる「ウパニシャッド」。

仏教以前に存在しており、奥義書とも訳されたりしているそうです。

 

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内容はずばり、私たちの存在は何か、生命の根源は何なのか。

私たちは日頃自分でないもの(例えば体や心など)を自分だと思いこんでいるが、実はそうではない。体や心は一時、私たちがこの世界を生きるために形として現れているものにすぎず、やがてはなくなるもの。私たちの体、私たちの心、と定義することはできるが、私そのものではない。本来の自分はもっとその奥深くにあり、永遠に消えることがないものだと聖典は説いています。

また、苦しみの原因は自分でないものを自分だと思い込み、本来の自分を知らない=無知からくるものである。本来の自分を知ることができた時、その苦しみから解放される、とも聖典は言っています。

 

YOGAや瞑想はこの境地に至るためのツールとされています。

理論や知識を聖典を通して学び、それを自分の経験として味ってその知識を自分のものとしていくために、YOGAが存在しています。

 

私も日々のYOGAや瞑想と並行してインド哲学を学んでいくことで、少しずつ人間の根源的な問いや幸せになりたいという願いに近づいていることを確信しています。

 

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引き続き不安定な世の中ですが、インドの古代の知恵は未知な世の中を生きていく、またどんな環境でも幸せを手に入れることができるよう、道筋を示してくれています。

 

これからウパニシャッドを始め、インド哲学や聖典から学んだこともシェアをしていきたいと思います。

 

今年もマイペースな形でスタートしたブログですが、2021年もどうぞよろしくお願いいたします!

 

年の瀬に

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少しご無沙汰してしまいました。

しばらくNYを不在にしており、ブログも不在となってしましました。

 

日本は今日は大晦日。2020年ももう終わりですね。

 

年の瀬に今年を振り返っている方もいらっしゃるのではないでしょうか?

今年はなんといっても世界的なパンデミックと経済のロックダウンで多くの人が何かしらの影響を受け、人生の方向転換を迫られたり、今まで当たり前となっていたもののありがたさに気付いたり、いろいろな心境の変化もあったことと思います。

 

個人的には、世界が先行きの見えない不安で包まれている中で、いかに自身がそれに惑わされることなく如何なる外的要因にも簡単にゆるがない確固たる何か強さのようなものを自分の中に見出すことの大切さを学んだ一年だったと思います。

 

その中でYOGAやインドに古くから伝わる知恵との出逢いがあり、私たち人間とは何なのか、一体どこからきて、どこへいくのか、いまここでこうして生きている理由や目的は何なのか、といった根底的な疑問への光が差し掛かったかのような年でした。

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夏からつらつらとYOGAやインド哲学を中心に日々感じたことを綴ってきたブログですが、みなさん読んでいただいてありがとうございます。

 

このブログを読んでいただいているみなさんは、今どこでどんな心境で2020年を終えようとしていらっしゃるのでしょうか。

 

今年1年お疲れ様でした。

2021年何が起こっても皆さんにとって幸せで実り多き年となりますように。

 

来年も相変わらず日々感じたことや発見したことなど綴っていきたいと思います。

2021年も宜しくお願いします。

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よいお年をお迎えください。

 

Dec 30, 2020

New Yorkにて